(画像参照:JIJI.COM)
以前、“江戸時代の死刑”に的を絞って記事を書きました。
(過去記事 : 時代劇「市中引き回しの上、打ち首獄門」江戸時代の”死刑”の内容がエグイ‥)
今回は、“江戸時代の拷問”について、です。
江戸時代は”自白主義”
言うまでもなく、今の時代は “証拠主義(証拠裁判主義)“です。
刑事訴訟法 317条「事実の認定は、証拠による。」に基づいて。
ですが、江戸時代は“自白主義”でした。
なので、例え<物的証拠>があっても、容疑者の“自白”がなければ裁判にかけることができなかった、ということ。
つまり、「コイツが怪しい」「ヤツが犯人だ」とされて捕らえられると、徹底的に問い詰められ、“自白”を迫られる、ということ。
このために用いられる手段が、【拷問】です。
1742年(寛保2年)、8代将軍・徳川吉宗の下で作成された「公事方御定書(くじかたおさだめがき、くじがたおさだめがき)」によって【拷問】が制度化され、
“笞打“・”石抱き”・”海老責“・”釣責“
この4つが【正式な拷問】として定められました。
“法律”をもってして【拷問】の種類を規定って‥。∑(゚Д゚ ;)スゲー..
なので、これまでの“駿河問い“・”水責め“・”木馬責め“・”塩責め“などの【拷問】は禁止だよ!! ってことです‥。
(「公事方御定書」の詳細については、過去記事: 時代劇「市中引き回しの上、打ち首獄門」江戸時代の”死刑”の内容がエグイ‥をご覧ください)
“笞打(ちだ・むちうち)”
(画像参照:JIJI.COM)
“笞打“とは、そのまんま、“鞭(むち)打ち”です。
“牢問(ろうどい)“・”責問(せめどい)“と呼ばれる“正規の拷問”の前段階として、どうしても罪を認めない容疑者に対して“自白”を迫るために施される最初の【拷問】です。
この【拷問】を受けるのは、殺人、放火、強盗、関所破り、文書偽造など、“死罪”に値する容疑者に限られました。
どんな【拷問】なのか‥?どうなるのか‥??
基本、まずは容疑者を上半身裸にし、肩に筋肉が盛り上がるように腕を後手に上部で縄でしばって固め、正座をさせ、非人や中間がその縄の端を前後から引っ張って身動きできない状態にします。
で、竹を途中まで二つに割って麻糸で固く補強した“箒尻”(ほうきじり)という棒で、縛られ盛り上がった肩の肉を打たれ続けます。
“箒尻”は軽いものながら非常に打撃力が強いため、10数回打たれただけでもほとんどの容疑者の皮膚は破れて、出血。
なので、その傷口に砂を撒いて止血。
とりま血は止まったので、その後も尚、打ち続けられます。
それでも“自白”しようとしないヒト、50回を越えると気絶したそうな‥。
こんな【拷問】に耐えて牢に戻ると、同房の囚人からは「ヒーロー」扱い、敬意を持って迎えられ、手厚く看護されたそうな‥。
で、この“笞打”で“自白”しないなると‥??
次なる【拷問】、“石抱”が待ってます。
“石抱(いしだき・いしだかせ)”
(画像参照:JIJI.COM)
“石抱“とは、上記の“笞打”に耐えた者への次なる【拷問】。
「算盤責(そろばんぜめ)」・「石責(いしぜめ)」とも。
ドラマ・『JINー仁』でも南方先生がこの【拷問】による“自白”を迫られるシーンがありましたよね。
どんな【拷問】なのか‥?どうなるのか‥??
基本、容疑者である囚人はまず、後手に緊縛されます。
で、脚部を露出させられ、三角に削った材木を並べた「十露盤(そろばん)板」の上に正座させられ、背後の柱にくくりつけられます。
(ちょっと後ろにのけぞることができるように隙間を空けて‥。この後行われる【拷問】により、胸部が圧迫されないようにするために‥。)
ただでさえ‥“三角形の木材の上に正座”だけでもキツいのに‥。
そこに加えて太ももの上に石の板を乗せられます。
板の重さは一枚当たり12貫 = “45㎏”。
これを左右にユサユサと揺すられて‥。
太ももの上に置かれた板、最初の1枚~3枚目まではその苦痛のため、ひっきりなく、泣いたり、喚いたり、叫んだり、吼えたり、歯ぎしりしたり、涎や鼻水を垂らしながら、髪を振り乱して、苦しみます‥。
4枚目(180㎏)以降には苦痛を感じなくなり、「ポカーン」とした表情や「キョロキョロ」と周囲を眺めまわしたりなど、“放心”の様相を呈します。
当然ながら出血、徐々に下半身は蒼白となり、これ以上続けると命に関わるので、中止。
「十露盤(そろばん)板」から降ろされても、もちろん自分で歩くことも、立つことすらできないので、担がれて牢屋に戻されます。
以上の過程が、日単位・月単位の間隔をあけ、何度も繰り返されます。
この【拷問】、初回で一気に板を4枚(180㎏)まで乗せて“石抱”の恐怖を脳裏に叩き込んでおき、次回からは敢えて時間をかけて‥徐々に一枚ずつ‥という手法もとられました。
“石の板”を見ただけで‥”という“心理戦法”ですね。
加えて、前述の“笞打”が同時に行われることもあります。
もはや “全身ズタボロ”でしょうねぇ‥。
でもまあ、ちゃんと法律としての「公事方御定書」に則った【拷問】なんだから、何の問題も無し!!w
で、この“石抱“でも“自白”しないなると‥??
次なる【拷問】、“海老責“が待ってます。
“海老責(えびぜめ)”
(画像参照:JIJI.COM)
“笞打”・“石抱”を経てもなお“自白”しない“しぶとい者”に対しては、次なる【拷問】である“海老責“が待ってます。
“しぶとい”って‥。あくまでも“容疑者”でしかないんですけど‥?
どんな【拷問】なのか‥?どうなるのか‥??
基本、まずは、下着姿にさせられます。
(余談 : 疑問。「女性はどうだったのか‥? 」 1932(昭和7)年12月16日、日本橋白木屋百貨店の火災。「当時の女性は着物だったので下着を着けておらず、避難の際に下から見られることを恥ずかしがり、裾を整えようとしての墜落死だったのでは?)
あぐらをかかせられ、後手に縛り上げられ、両足首を結んだ縄を股をくぐらせ、背中から首の両側胸の前に掛け引いて絞り上げ、その後‥って‥
良く分からん!!
なので、前後に貼り付けた“画像”からその状態を確認して下さい。<(_ _)>
(画像参照:ADEAC)
とにかく、顎と足首が密着する二つ折りの姿勢となって、床に前のめりに転がった形となります。
“海老責“、どうして「エビ」なのか?
・「エビ」のように身体を折り曲げられて縛られるため
・全身がうっ血して「エビ」を茹でたように赤くなるから
この縛られた姿勢のまま、3~4時間、放置。
最初は不自由・窮屈を感じる程度で、ほとんど苦痛の感覚は無し。
が、30分ほど経つと、血液循環が停滞しだして全身の皮膚が赤くなり、以降、途轍もない苦痛に襲われるようになります。
そのうち皮膚は赤色から紫色に変わり、最後には蒼白となります。
前述の“石抱”の場合と同様、これ以上続けると命に関わるので、中止。
“全身麻痺”の状態で動くことすらままならないので、牢屋に担ぎ込まれることになります。
これまた加えて、“笞打”が同時に行われることがあります。
繰り返しながら、もはや “全身ズタボロ”ですよねぇ‥。
で、この“海老責“を喰らってもまだまだ“自白”しなければ、次の【拷問】=“釣責“が待ってます。
“釣責(つるしぜめ・つりぜめ)”
(画像参照:JIJI.COM)
“笞打”・“石抱”・”海老責”を経てもなお“自白”しない“剛の者”には、
最期の合法的な【拷問】である“釣責“が待ってます。
ってか「知らない」「やってない」という消極的事実の証明は不可能‥。
これって“悪魔の証明”でしょ‥??
どんな【拷問】なのか‥?どうなるのか‥??
基本、両腕を後ろ手にさせられ、手のひらが両ひじあたりにくるように交差されねじり上げられ、縄に締め付けられ食い込んで皮膚を破ってしまうのを防ぐために腕に半紙と藁蓆(わらむしろ)を巻かれ、肩の骨が外れてしまうのを防ぐためにしっかりと縛りつけられてから、釣り上げられます。
(女性の場合は裾の乱れを防ぐために足首を縛られたとか。)
縄が肉体に食い込む苦痛‥。血行障害による苦痛‥。
これ以降の様子については、
・「通常は数分で失神してしまうので長時間は続けられなかった」
・「この形で2~3時間ほど放置される」
というものが見つかりました。
いずれにせよ、生命の危険に及ぶと判断された時点で中止です。
加えて、上記の画像ではやはり、“笞打”が加えられてますねぇ‥。
【拷問】の目的はあくまでも“自白”です。
自らの罪を吐かせないままに死なせてしまったら意味がない。
なので、ちゃんとお医者さんも用意されていて、「それ以上はダメだよー」とかの意見をしたり、ズタボロにされた“単なる容疑者”に“気付薬”や“傷薬”を与えたりといった看病もしました。(←自作自演ww)
“牢問”と”拷問”の違い
上記、お上によって“公認”を得ていた上記の4つの【拷問】。
英語で訳した場合には【torture[tɔ́rtʃər]】の1つにまとめられているようですが、日本、江戸時代の【拷問】は、厳密にいうと「牢問」と「拷問」の2種類に分かれています。
「牢問(ろうもん・ろうどい)」とは?
「牢問」とは、牢屋敷内の穿鑿所(せんさくじょ)にて行われる【拷問】。
前述の“笞打”・“石抱”・”海老責”がこれに当たります。
町奉行(及び遠国奉行)の吟味での判断による専決の権限(=「手限(てぎり)」で実行可能な【拷問】です。
「拷問」とは?
「拷問」とは、牢屋敷内の拷問蔵(ごうもんぐら)において行われる【拷問】で、前述の“釣責“がこれに当たります。(“海老責”もココに含まれる、とも?)
老中(または将軍)の許可なくしては実行不可であった【拷問】です。
その許可が下りると”吟味方“が牢屋敷を訪れ、【拷問監督】を務めました。
【拷問執行人】は牢屋奉行所の牢屋同心である“数役”や“打役”です。
町奉行――┬┬与 力―――─同 心――目明し・岡引・下引
│└──────────────中間─小者
│
├─牢屋奉行──┬鍵役・数役・打役
│ ├小頭・世話役・書役
│ ├賄役
│ ├───────牢屋下男
│ └牢屋医師
├─本所道役
├─養生所
├─江戸町年寄──江戸町名主──自身番
├─江戸町地割役
├─江戸町火消
└─穢多頭───┬─────────―──穢多
└非人頭───────―─非人(参考:「江戸幕府役職事典」)
以上、江戸時代の【拷問】について、でした。
実際の執行への手続きは厳密に定められていました。
そりゃま、なんせ “法律に基づいての執行”なんだから当然だけど?ww
よって、さすがに時代劇・ドラマによくあるような、町奉行の勝手な判断で簡単に【拷問】が執行されたり、“東山の金さん”のごとく白州にてのすぐさまの「打ち首獄門」などという言い渡しなんかは出来ない仕組みであった、ってことだけはご理解頂けたと思います。
ということで、最期に‥。
【察斗詰】をご紹介して、終わります。
“察斗詰(さっとづめ)”
【察斗詰】とは、【拷問】を経ても口を割らなかった“容疑者”に対し、その“自白”がなくても“証拠”が明白な場合、老中の裁可を経た上で【処刑】できるとする制度のこと。(「察度詰」とも。)
は‥? なにこれ‥‥??
前述の通り、現代の“証拠主義”とは違い、江戸時代は“自白主義”。
どれだけ「証拠」や「証言」が揃っていようが、“本人の自白”(口書(くちがき)=裁判調書)と“爪印”が無い限り、罪状は確定されず刑の執行も無しでした。
「だからこそ!」の【拷問】だったはずなのでは‥?
特に「殺人」・「放火」・「盗賊」・「関所破り」・「謀書謀判(文書偽造)」の大罪においては、「悪事の証拠たしかに候とも、白状致さざるもの、ならび同類の内白状致せしも、本人白状致さざる候時」には、“自白”を得るため【拷問】に掛けるべし、とされていました。
「御定書百箇条(公事方御定書)」においても、“証拠が明白“であっても当人の“自白が不可欠”であるとし、それを得るための【拷問】を義務づけてる(!)のに‥??
にも関わらず、この所業‥って。
これほどまでの地獄に耐えて頑張った【冤罪のヒト】の無念たるや‥。
ってかさ‥結局のところ、“証拠主義”なの?? “自白主義”なの???
どっち?
“悪魔の証明”やら‥。
「推定無罪」どころか“推定有罪”が前提の【拷問】‥。
“法律に基づいた刑罰の執行”ってのはホント、恐ろしいもんですね‥。
令和2年を迎えた今の世も‥。
(参考)「爪印(つめいん・つまじるし)」とは?
江戸時代、今の印鑑(はんこ)の代わりとして用いられた、
“爪の先に朱肉(墨)をつけて描いた弧の字型の印章“のこと。
使用するのは親指で、「男性は左、女性は右」。
男性では、官位授与の裁可にも使われていました。
女性では、遊女になる際の請文(うけぶみ)や、“離縁状”などに。
(当時の文字の書けない人、筆で縦に3本とその半分の線を1本引いて、最後に「爪印」。これがいわゆる“三行半(みくだりはん)”です。)
(参照過去記事 : 時代劇「市中引き回しの上、打ち首獄門」江戸時代の”死刑”の内容がエグイ‥)
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