2曲目がキリンジの「エイリアンズ」。
今年3曲目の良い曲に出会いました。RADWIMPS の「棒人間」。
スゴいね。なかなか深い。素晴らしい。
歌詞をじっくり読み込んで、あれやこれやと考えたのはきっと「尾崎」以来のことです。
CMで聞いた時の第一印象
「ボクは人間じゃ無いんです ほんとにごめんなさい」
ドラマのタイトルが「 フランケンシュタインの恋」。
「人間じゃ無い」=「怪物?」ってことで、まさかこの設定に合わせての書き下ろしの曲なのかな? もしそうなら今時珍しいな? というのが第一印象でした。
なんせ今やアニメにおいてさえも、全くその内容とは関係の無いタイアップ曲ばっかりでメチャクチャなことになってますから。(いわゆる本当の意味でのアニメソングは「ドラゴンボール」が最期じゃないかな? という記憶が)
それにしては曲のタイトルが「棒人間」。キャラの頭部を円、胴体と手足を線で描くアレのことじゃないの?(最上部の画像参照)
なら例え「棒」であろうと「人間」じゃん??
でもまあ何にしても、その歌詞の内容ってのはどうせ、本来ならば見ない好きだの嫌いだのという「恋」のドラマなんだから、ご多分に漏れずの、自分の好きな女の子に対しての思いをどうのこうのと‥いつも通りの、当事者ではない我々にとってはどうでもイイの極みの「自己満ラブソング」なんでしょ‥?
RADWIMPSといえば”あの”映画「君の名は。」の「前前前世」くらいは知ってます、さすがの私でも。この映画も好きだの嫌いだのがテーマの模様だし?
(でも映画は見てない。TV放送(日テレ系かな? この感じは)で録画で見ます。個人的な見解として、新海誠監督の作品のキャラはどれも”絵的に魅力がない”ので。「言の葉の庭」「秒速5センチメートル」にしても。が、背景描写というか風景描写がエグい‥。本来面倒な作業でしかないですからね、こんなもん‥。それをここまで‥。という点で、注目はしています)
結局そういうことなんでしょ? と思っていたのですが、まったく違っていました。
(参照 : 恋するフランケンシュタインのコンプレックス??)
「棒人間」= 安部公房の「箱男」?
第一話のエンディングで始めて聞いて、その「棒人間」というタイトルと歌詞の内容からパッと連想されたのが安部公房の小説「箱男」でした。
小説「箱男」とは、
ダンボール箱を頭から腰まですっぽりとかぶり、覗き窓から外の世界を見つめて都市を彷徨う「箱男」の記録の物語(Wikipedia)
です。
元カメラマンの<ぼく>が「箱男」としての記録を書き始めるというところから始まり、箱をかぶることで自らを社会から隠蔽でき、すると、社会にその身を置きながらも一切の帰属を捨て去って存在証明を放棄することも可能になる‥
というような小説なのですが、すごく面白いけれどあまりに難解で、読み終わっても「結局何だったんだ?」となります。
この「箱男」の感覚を「棒人間」にも感じたので、まずはRADWIMPSの「棒人間」歌詞 を用意してじっくり読んでみました。
(以下、アーティストを特定できる歌詞を少しでも引用するとJASRACが “金を払え”と直接ブログに言ってくるそうなので、恐々‥。
著作権の侵害のつもりなんか一切ないんだけど、彼らが「パッ!と」閃いた「さいでりあ」的「小林亜星」ルールなんだから従わなければしょうがない)
「ほんとにごめんなさい」の対象は誰なのか?
一体、誰に対しての「ごめんなさい」なんだろ‥?
まずは、第一印象としてあった「人間じゃ無い」=「怪物」ではなかったし、好きだの嫌いだのというラブソングでもなかった。(そして、「箱男」でもなかった‥)
どうやら、現実社会においての自身に関わっている身内や彼女に対するものではないらしい。なぜなら、
朝の起床、今日も こなさなければならないノルマとしての
「面白くもないけど笑ってみたり」
「その痛みなんか分からないけど慰めてやったり」
「褒められたからとりあえず否定してみたり」
「他人のために自分のことを諦めてみたり」
笑顔・同情・謙遜・自己犠牲にうんざりしながら、目覚める。
優しさを胸に秘めつつも。
適当に生きながら、程よく真面目に仕事をしながら、全然大丈夫なフリをしながら、たまには泣いたりしながら、周りの期待に応えようと毎日努力はしている。
けれども、そんなものは偽りの自分。
化けの皮がはがれて、1人、また1人と自らのもとを去ってゆく‥。
「バッタもん」ながらも、日常、普段から「人間」の生活はちゃんと出来ているわけで?
となると残された「ごめんなさい」の対象となるのはただ1人。自分。
優しさ(だとホントは自ら思っているだけに過ぎないんだけど?)を胸に秘めた、自分自身への「ごめんなさい」。
「棒人間」とは実に言い得て妙
「〇」と「ー」だけで構成された「棒人間」。
たしかに「人間」とは分かるものの、あまりにも無機質でそこに「人間らしさ」はない。
仮に表情を加えたにしても「丸描いてちょん」か「へのへのもへじ」程度でしょう。
「今どんな顔の自分か 分からなくなる始末」となって当然だし。
この辺りの感覚、実に素敵。
にしても、となると、「人間」とはなんぞや? という問題が持ち上がってくる。
彼の言う日々演じている偽りの自分(とやら)を何ら疑問を持つことなく完璧に表現できるようになったすれば、そこでやっと「人間」になれたということであり、それが「人間らしい」ということなのか?
この点において「まともな人間になれないダメ人間の歌」を大前提として評しているレビューには違和感バリバリです。
「棒人間」の行き着く先が「尾崎」の「シェリー」。(没後、ちょうど今年で25年‥。)
転がり続けて”こんなとこ”に辿り着いた者からの這い上がりを願っている‥
この曲は、明らかにその対象は彼女。
これはもう(取りようによっては)ホントに病的な自己否定で、こちら聞く側の状況次第で「いいかげんにしろよ‥」とイラッとするくらいに強烈。
しかしながら、まさしく現実を生きている「人間」の、「まともに過ぎる人間」からの実に「人間らしい」メッセージです。
なので、辿り着いてもいない「棒人間」=「まともな人間になれないダメ人間」とはなりえませんね。
(にしても、尾崎の「シェリー」、1985年にリリースされたセカンド・アルバム「回帰線」の収録曲です。尾崎が1965年11月29日生まれ。一体何歳でこんな内容の曲を思いついてるんだ‥ホントに驚異です)
「フランケンシュタインの恋」の番組ホームページはこちら。
以下、今回の内容に関しての宣伝・広告です。
RADWIMPS「人間開花」(「棒人間」は9曲目)
安部公房 (読みやすいだろう順に)
尾崎豊 「回帰線」(「シェリー」はラスト)
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