皆さんご存じの「福助」。
フルネームは「叶 福助 (かのう ふくすけ)」です。
ちなみにファンにとっては有名すぎるネタ、「The Beatles(ザ・ビートルズ)」のアルバム「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band(サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)」のジャケットにも「福助」がいます。(画像クリックで拡大)
この「福助人形」、現在は”あの”ダコタ・ハウスのキッチンの棚の上に、さりげなく飾られているそうです。
(画像出典 : 中村葵大BLOG)
「福助人形」には実在のモデルがいた?
「福助人形」はもともと、文化元年(1804年)の頃から江戸で流行した「福の神」の縁起人形で、願いが叶えられるものとして茶屋や遊女屋などで祀(まつ)られました。
その実在のモデルは誰なのか?
次の3つの説があります。
●摂津国の「百姓の息子」説
●もぐさ屋「亀屋の番頭」説
●京の「呉服屋の主人」説
摂津国の「百姓の息子」説
摂津国(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の百姓佐五右衛門の息子「佐太郎」がモデルであるとするもの。
「佐太郎」は当時には珍しく非常に長く生き、享和2年(1802年)にこの世を去った身長が2尺(約60cm)ほどしかない大きな頭の障がい者だった。
近所の笑いものになることに心を痛めて家を出ることにし、東海道を下っている時に香具師(やし。祭礼や縁日などで露店を出して商売したり、見世物などの興行をおこなう人)に誘われるがまま生活のために「見世物」に出演。
するとこれが江戸で大評判となって、さらに「佐太郎」から「福助」に改名すると、名前が福々しくて縁起が良いと「見世物」はますます盛況となった。
なぜ「福助」だったのか?
もともとは「不具助」。不具(ふぐ)とは、身体の一部に障がいがあること。
これが転じて「福助」となったそうな。
「見世物」の見物人のなかに旗本の子がいて、両親に「福助を遊び相手に」とせがんだため「福助」は金30両で売られることとなり、この武士に召し抱えられる。
以降、旗本の家は幸運続きであったため「福助」は非常にかわいがられ、旗本の世話で女中の「りさ」と結婚する。
永井町で深草焼(陶器)の商売を始め、自分の容姿に似せた像を作って売り出した。
この人形が「福助人形」。
「福助」の死後、長寿であった短身大頭の「佐太郎」が掴んだ幸運にあやかろうと「福助人形」は福徳招来の縁起物として大流行した。
以上が、摂津国の「百姓の息子」説です。
もぐさ屋「亀屋の番頭」説
近江国(現在の滋賀県)の伊吹山のふもと、柏原という宿場のもぐさ屋 亀屋の番頭「福助」がモデルであるとするもの。(もぐさ = 主に「お灸」に使用されるヨモギの葉の裏にある繊毛を精製したもの)
伊吹もぐさ 亀屋に「福助」という正直一途の番頭がおり、店の創業以来伝えられた家訓を忠実に守り、ふだんから裃(かみしも)を着け、扇子を手放さず、道行くお客さんに もぐさをすすめ、どんなに儲けの少ない商いにでも感謝の心を表し、おべっかを言わず、真心で応え続けた。
この商いに対する誠実な姿勢のおかげで店は大いに繁盛し、異様に大きい耳たぶをもっていた「福助」、その容姿とともに噂は上方(かみがた。京都や大阪)にも広がって一躍有名に。
それを聞きつけた京都伏見の人形屋が、福を招く縁起物として「福助」の姿を模して人形を作った。
これが「福助人形」。
以降「福助人形」は大流行となって、あらゆる商店の店先に飾られるようになっていく。
以上が、もぐさ屋「亀屋の番頭」説です。
実はこの話に登場する「もぐさ屋さん」、現存しております。
住所を見てみると、滋賀県米原市柏原、まさしく「近江国(現在の滋賀県)の伊吹山のふもと、柏原」ですね。
1993年に筑摩書房から出版された「福助さん」という書籍にて、著者である荒俣宏は
“(もぐさ屋)亀屋の福助を見て、ただひたすら、その大きさに感動する”
としています。
それが、こちら。
(画像出典 : 中山道 柏原宿 亀屋左京の福助)
(画像出典 : 不明)
加えて、「木曾海道六拾九次之内 柏原 (歌川広重)」。(画像クリックで拡大)
亀屋もぐさの「福助」が右端に鎮座しておりますね。
京都の「呉服屋の主人」説
一代で財を成して大長者となった京都の「大文字屋」という大きな呉服屋の主人、「下村彦右衛門」が「福助」のモデルであるとするもの。
1688年(元禄元年)「彦右衛門」は京都伏見にあった古手屋(古着屋)「大文字屋」の主人、下村三郎兵衛の3男として生まれた。
その容姿、身長が5尺(1m50cm)弱と低く、そのわりに頭が極端に大きく、耳たぶが垂れ下がっていた。
「彦右衛門」は、毎年年末になると貧民救済の為に古着やお金、炊き出しをして食事を施して多くの人を救ったため、「福の神のような人」=「福助さん」と呼ばれるようになった。
これに目を付けた伏見の人形屋が、「彦右衛門」の容姿の特徴を取り入れた人形を作って「福助」と名付けて売り出したところ、大流行となった。
以上が、京都の「呉服屋の主人」説です。
ちなみにこの「下村彦右衛門」、百貨店「大丸」の創業者です。
「大という字は、一と人を合わせたもので、丸は宇宙・天下を示す」ことから、天下第一の商人であれという業祖・下村彦右衛門正啓の志と決意が込められたものと伝えられています。
大丸マークは、1913年(大正2年)に、縁起のよい七五三の髭文字を商標登録しました。(大丸HPより)
結局、誰が本当のモデルなのか?
年代で見てみると、
「百姓の息子」の「佐太郎」の説で出てくるのは享年の「1802年」。
「亀屋の番頭」の「福助」では「木曽海道六十九次」の制作年代「1835年〜1842年」。
「呉服屋の主人」の「彦右衛門」の場合、生誕年の「1688年」。
こうなると、最も古い「彦右衛門」の勝ちか? となると、さにあらず。
何故なら、その「裏付け」。
客観的な立場からの第三者による「証拠」の有無。
この点、「佐太郎」には、あります。
『我衣』(加藤 曳尾庵(かとう えびあん/えいびあん)による江戸の世相風俗について記した日記風の随筆)に、「(1804年・文化元年)春の頃より叶福助といふ人形を張抜にせし物大に流行して~」と記されているとのこと。(見つけられませんでしたが‥)
また、
『一話一言』(大田 南畝(おおた なんぽ)による1775年(安永4年)頃から1822年(文政5年)頃までに筆者が見聞した風俗・流行・事件・天災・幕府の文書などを書き留めた随筆)にも、「享和三年(1803年)冬より、叶福助の人形流行」とあるとのこと。(見つけられず‥)
「佐太郎」が亡くなったとされているのは1802年、随筆というそのニュース性からしてもバッチリ符号しています。
よって最有力なのは「佐太郎」=「福助」です。
さて、こちらの画像、皆さんご存じの「福助人形」のもととなった福助株式会社の「社宝」、「伊勢路福助」です。
明治33年正月、福助の創業者・辻本福松の息子・豊三郎が、吉例(おめでたいしきたり)であったお伊勢参りの帰り、古道具屋で裃を身に着け、威儀を正した福々しい「福助人形」に出会いました。
豊三郎はこれを商標にしようと思いつき、買い求め、それを父・福松に見せたところ「良いものを授かった」と手を打って喜んだそうです。
この伊勢詣での際に見つけた「福助人形」は、かみしもを着て正座し、扇子を広げて手に持つという姿をしたものでした。(上の画像の通り)
福松親子はこの人形に、人間の徳をあらわす「仁・義・礼・智・信」のイメージを加え、「頭を低くし、手をついて礼を尽くす」という今やおなじみとなったポーズの「福助人形」を生み出しました。
画像は「福助ミュージアム」からのものです。
(開運! 福助ミュージアム ホーム)
新旧を含めて、変わり種など、さまざまな「福助人形」が見られます。
興味のある人は是非。
以上、「福助人形」は「商売繁盛」「千客万来」「出世開運」「福徳招来」「家内隆盛」「長寿」「招福」などなど、とても縁起の良い人形です。
一家にお一人の「福助さん」、いかがですか??
では‥。
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