皆さんは「仇討ち(あだうち)」という言葉をどう使ってますか ???
普通は「仕返し」って感じで、じゃないでしょうか ??
試合に負けた先輩の「敵討ち(かたきうち)」みたいな ??
正解です。(*^-^*)
その他の類語としては「しっぺ返し」「お礼参り」「復讐」「報復」「返報」「雪辱」などがありますね。
でも、この「仇討ち」という言葉‥。
大昔の武士の世界では、主君・親兄弟を殺したヤツを復讐として「殺し返す」ことを意味していました。
しかも、江戸時代には警察権の範囲として制度化され、この「仇討ち」という“復讐を目的とする私刑”が正式な“合法的な行為”となりました。
(ちなみに、当記事のURLにある「vendetta (vendéṭə) =”ヴェンデッタ”」というのは、むかしコルシカ島・イタリア諸地方で行なわれた何代にも渡ってのファミリー同士の「血の復讐」のことです。
ちなみに、マフィア映画でよく見かけるのが「血の掟(おきて) 伊:Omertà」。シチリアのマフィアの約定です。「オメルタの掟」「沈黙の掟」とも。
詳しく知りたい方はこちら。)
「仇討ち」とは ?
「仇討ち」の基本的な考え方は、「私刑」=「リンチ」です。
「私刑」とは、国家・公権力の法律や刑罰権に基づくことなく執行される、個人もしくは集団による加害者に対し、処罰を意図した私的な制裁のこと。
この「仇討ち」は江戸時代、武士階級における風俗・慣習として幕府によって公認されており、実際に“国家・公権力の法律や刑罰権に基づいて執行“されていました。
その意義・理由としては、
- 親しい者を殺された遺族の恨み・憎しみなどを晴らすため、あるいは殺されたヒト自身の無念を晴らすため等の、同情・人情・情愛・義侠・憐憫‥といった感情的な動機の是認。
- 自力救済(何らかの権利を侵害された者が、司法手続によらず実力をもって権利回復をはたすこと)の考えから、集団の平和・安全の維持への脅威を防止・除去するためにとる集団的な措置。(今なお暴力団やマフィアの社会で続いている考え。)
が基本です。
1873年(明治6年) 2月7日、明治政府によって第37号布告「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)」が発布されたことで、「仇討ち」=「違法」となりました。
「仇討ち」の主な分類
敵討ち
「敵討ち(かたきうち)」とは、「尊属」である親族が殺された場合に行われる復讐としての殺害を指し、「卑属」に対するものは基本的に認められませんでした。
(※「尊属」‥ある人を基準として、親族関係において先の世代にある血族。直系尊属(父母・祖父母など)と、傍系尊属(おじ・おばなど)に分けられる。
「卑属」‥ある人を基準として、親族関係において後の世代にある血族。直系卑属(妻子・弟・妹・孫など)と、傍系卑属(甥 ・姪 など)に分けられる。)
つまり、親が子供の無念を晴らすために‥などといった目下の親族のための「敵討ち」や、夫が妻子の無念を‥というものは認められないということです。
また、「敵討ち」が認められたのは、基本的に武士階級のみであり、実際は「忠臣蔵」のような家臣が主君のためになど血縁関係のない者について行われることは少なかったそうです。
女敵討ち
「女敵討ち(めがたきうち)」とは、妻が不倫をした場合、その不倫相手の男と妻に対して行われる復讐としての殺害です。
上記の「敵討ち」とは違って「敵を討たねば、家がつぶれる」というような深刻な事態ではないものの、江戸幕府は“夫の恥”を重視し、その罪においても退役か隠居させればよい、という考え方でした。
「女敵討ち」は庶民においても認められていました。
この「女敵討ち」は、武士(サムライ)にとっては「不名誉な仇討ち」でした。
妻の姦通(社会的・道徳的に容認されない不貞行為・性交渉。婚外性交渉。)が発覚したからには武士にとって「女敵討ち」は義務であったものの、同時に“恥”であったために公にされないこともありました。
後妻討ち
「後妻討ち(うわなりうち)」とは、離縁して1ヶ月以内に元夫が再婚した場合の、前妻の後妻に対する復讐としての殺害のこと。
前妻が、その旨予告した上で、後妻の家を襲います。
前妻側は、たすき・鉢巻姿で竹刀や棍棒をもって20名~100名で後妻側を襲撃。
家財道具の一切を破壊します。
分類としては「仇討ち」の復讐としての殺害には属するものの、この「後妻討ち」の際には後妻側は逆らう事はせず、あくまでも前妻の「顔を立てるため」「憎悪・鬱憤を解消のため」「女の無念を晴らす」という儀礼的な風習でした。
衆道敵討ち
「衆道敵討ち(しゅどうかたきうち)」とは、上記「女敵討ち」の全くの逆、
「男同士の痴情のもつれ」からくる復讐としての殺害のことです。
(※「衆道」‥日本の武士における男性同士の性愛関係=「男色」のこと。)
「仇討ち」の中で最も多いのが、この「衆道敵討ち」なのだとか‥。
女役の男は、髪を伸ばして女のように振る舞っていたとか‥。
「ホモ」「同性愛」「LGBT(レズ・ゲイ・バイ・トランスジェンダ)」「性的マイノリティ」等々‥これらの感覚は現代ものだと思いきや‥。
そういえば確かに江戸時代の「銭湯(=湯屋(ゆや・ゆうや))」って「男女混浴」だったりしたことからも、今の世の中より以上に“性”に対して大らかだった‥??
差腹
「差腹(さしばら)」とは、自ら敵を討つことなく、先に自分が切腹して死んで、その相手に遺書と刀を送りつけて切腹を迫るという「仇討ち」の手段。
切腹を迫られた者の対応としては‥
「相手はもう死んでしまっている‥交渉の余地も無し‥こんな状況下‥拒否するってのは武士の恥だよね‥仕方ない‥‥切腹します‥。」
という“武士の心理”を狙い撃ちした「仇討ち」です。
自分自身の命と引き換えに、相手の武士しての矜持に掛けた「仇討ち」の方法。(※「矜持(きょうじ)」=「プライド・自負」)
当時の「喧嘩両成敗」の風習を利用した、武力の弱い者でも簡単に敵を殺すことのできる手法‥。
「最も確実な仇討ちの方法」として、かなり頻繁に行われていたそうで‥。
ってか‥現代に置き換えてみて、コレが「OK」ということになると‥。
例えば、とある「A級・人気男性(武士)アイドル」がいたとして。
“彼”に「ねたみ」「そねみ」「やっかみ」を抱いた「B級・地下男性(武士)アイドル」が絶望を感じて自ら死を選択した際に、遺書を送りつけて死を迫る、って流れに‥?
「A級・人気男性(武士)アイドル」は、死ななきゃいけないの??
とにかくもう‥江戸時代におけるニンゲンの“命の軽さ”ときたら半端ない‥。
┐(‘~`;)┌ヤレヤレ
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んでる際にも、ホントにそう思いました。
この“命の軽さ”の潮流を踏襲して発想・実行されたのが、後々の昭和時代の「太平洋戦争」における「神風特攻隊」ですよねー‥。
(参考 : 「神風特別攻撃隊」)
「仇討ち」には”条件”あり
「仇討ち」の本質は「やられたので、やり返す」です。
しかしながら、いくら江戸幕府に公認されていたとはいえ「なんでもかんでも」「思うまま好き放題」を公認されたわけではなく、あくまでも“条件付き”でした。
現代と同じく江戸時代においても殺人事件の取り扱いは、基本的には公的権力(幕府・藩)が行います。
が、その殺人事件の犯人が逃亡・行方不明となってしまい、逮捕・処罰できないというような場合、代わりに殺された人の関係者にその犯人の処罰を任せた、これが「仇討ち」です。
上記の「敵討ち」にも記した“条件”のほか、以下のようなルールが定められていました。
- 正当防衛
「敵討ち」=「決闘」ですので、双方に「正当防衛」が認められていました。
よって、もし「仇討ち」に現れた被害者の関係者を犯人が殺害したとしても「無罪」ということ。
これが「返り討ち」 です。
ちなみに、令和時代の日本の法律では「決闘」そのものが「犯罪」です。
(参照 : 「決闘罪ニ関スル件」・「組員ら3人逮捕」・「少年14人が送検」・「少年22人書類送検」) - “重敵”の禁止
「重敵(またがたき・じゅうがたき・かさねがたき)」とは、「仇討ち」された側の犯人遺族による、その犯人に対する「仇討ち」のこと。
これは、禁止。 - “又候敵討”の禁止
「又候敵討(またぞろ(そうろう)かたきうち)」とは、上記の「返り討ち」にあった被害者遺族による、その犯人に対する「仇討ち」のこと。つまりは、殺された上に、さらに殺されるという悲劇。
が、これも、禁止。 - “犯行現場”としての禁止
「犯行現場」として“城”や“遊廓(ゆうかく=遊里)“などの廓内、囲われている内側での「仇討ち」は禁止。
また、寺社仏閣などの“境内”でも禁止でした。
江戸幕府公認の「やられたから、やり返す」の「仇討ち」ですが、ざっくりまとめると「恨みっこなし」が原則。
要するに、「仇討ち」はまさしく“一発勝負!!”であり、「仇討ちの連鎖」につながる行為はすべて禁止ってことです。
「仇討ち」には “許可”が必要
「仇討ち」自体は江戸幕府公認でしたが、であるからこそ(現代にも通ずる)“お役所仕事”としての“許可”が必要でした。
武士(サムライ)の場合、もしもその犯人が藩内にいる場合、まずは属する藩の主君(お殿様)からの「仇討ち」の免状をもらわなければなりません。
“犯人捜索”が他国(他藩。←当時は日本国内にも関わらず他の国)に渡る場合には、奉行所(勘定奉行・寺社奉行・町奉行)への主君からの免状の届け出が必要となります。
精査の結果、これが認められるとその旨「敵討帳」に記載され、ようやく「仇討ち」の謄本を受け取ることができます。
これら手続きを経て、藩を離れての“犯人捜索”が公認となります。
対して、上記の女敵討ちなど、手順を経ない庶民の「無許可」の「仇討ち」の場合は、公的権力(幕府・藩)を持った現地の役人が調査し、結果、もしも「仇討ち」だと認められなかった場合、当然ながら「殺人罪」として処罰されました。
「仇討ち」成就‥その後は‥?
「仇討ち」という名の「私刑」=「殺害」を見事に成し遂げた後、一旦、ご公儀によって「殺人犯」として“捕縛”(逮捕)されます。
ここで、検視役人にすでに「仇討ち」を“届け出済み”であることを告げます。
で、その旨、奉行所が照会し、問題無しとなれば「帳消」の手続きが行われて“無罪放免”(釈放)、“一件落着”です。
「仇討ち」をお手伝いする「助太刀」
「敵討ち」という「決闘」。
決闘(けっとう)とは、2人のニンゲンが個人間での名誉の侵害や遺恨などから起こった争いを解決するため、事前に決められた同一の条件のもと生命を賭して勝負をつけること。果たし合い。
よって、「1対1」の「タイマン」張った「殺し合い」を思い浮かべるヒトも多いかと思いますが、実際は違っていました。
例えば、非力な者、女性や子供・剣術が未熟な者などは「敵討ち」の際には、お手伝いさん・協力者を味方につけました。
これが「助太刀(すけだち)」というヒト(たち)です。
「助太刀」も江戸幕府に公認されていましたので、例の“お役所仕事”としての“許可”が必要でした。
なので、時代劇のドラマや映画でよく見かける「仇討ち」のシーン、たった一人で“非力な者”が「父の敵ぃー!!」やら、それを見かけての「助太刀いたす!」なんてのはまず、あり得ません‥。
なんせ、“命を懸けたマジ勝負”ですからね‥。
実際には、敵側も「助太刀」を頼んでいることから、「1対1」の「タイマン」どころではなく、もはや集団戦。
徒党を組んでの「仇討ち」は禁止されていましたので、本来は死罪のはずなんですが。
(参照 : 「浄瑠璃坂の仇討」・「赤穂事件」・「鍵屋の辻の決闘」)
加えて、その相手が強すぎて絶対に勝てそうにない場合には、「決闘」どころか「闇討ち」もあったそうで。
こうなるともう、“武士の矜持”などは関係なし。
なにより堂々の勝負を挑んでの「返り討ち」への恐怖・不安が。
とにかく最優先は、“本懐を遂げる”こと。
たとえこんな方法で「仇討ち」を果たしたとしても、藩に戻ると“卑怯者”あつかいされるだけなので、そのまま流浪の旅を続けるしかなくなるものの。
なんせ、国を越えての苦しかった長旅の末、ようやく見つけた敵なので。
「仇討ち」の流浪の旅で一生を終える‥
前述の通り、江戸時代においても殺人事件の取り扱いは公的権力(幕府・藩)により行行われていました。
が、犯人が逃亡・行方不明となって逮捕・処罰できないという状況下において、代わりに被害者の関係者にその犯人の処罰を任せたのが「仇討ち」です。
しかしながら‥。
“御公儀” (= 幕府・朝廷・政府)が見つけられなかった犯人を追いつめる旅‥って。
とてもじゃないけど、ふつーに考えて無理でしょ‥。
しかも、いくら届け出て許可を受けての公認の旅だとはいうものの、個人的な事情から藩を抜けての旅なので、お給金は一切でません。(= 無職。)
さらには、これほどの覚悟を持って「仇討ち」の旅に出たからには、目的を果たすまでは絶対に国に戻るわけにはいかないため、もし犯人捜しが長引けば長引くほどそれだけ軍資金は減っていきます。
友人や親類などからの寄付・借金でなんとか切り抜けられたとしても、それは一時的なものであって、ずっと続けてはいけない。
なので、“武士の矜持”を捨て、行商人や土方人足などの日雇いのアルバイトで日銭を稼ぐことも必要でした。
こんな旅を何十年続けたところで仇敵を見つけられるとは限りません。
例えば、元禄14年(1701年)の「亀山の仇討ち」 では本懐を遂げるまでに28年、嘉永6年(1853年)に陸奥の鹿島宿で母の仇を討った「”とませ”の仇討ち」では53年も掛かっていますが、みごと復讐を果たすことが出来て“幸運”でした。
このような帰るに帰れない状況下、結局やっぱり犯人と巡り会えず、そのまんま“ゆくえ知れず”として生涯を終えてしまうことも。
その他、なんとか辿り着いたものの仇を討つ前にすでに相手が死亡していたり、僧侶になって人々に慕われているのを見て諦めたりなど、様々な結末があります。
江戸時代(1603年〜1868年) 、約260年間にもわたる時代において、記録に残っている「仇討ち」の数は129件だそうで。
となると、単純計算で「1年に2件」ほど。
記録に残ってないものや、「正式な手続きなんかクソ喰らえ!!」で行われた復讐としての“殺人事件”(迷宮入り)なんかも含めると、きっともっと多かったに違いないでしょうが、実際のところ「仇討ち」の成功率は5パーセント未満だったそうです。
「仇討ち」は「喧嘩両成敗」の補完手段
「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」。
今の世でも使われている、この言葉。
よく親や先生が子供同士のケンカの落としどころとして持ち出してくる、この理論。
「喧嘩両成敗」とは、ケンカ(=武力を用いた争い)をした当事者を、その理非(道理に適っていることと外れていること。是非。)を問わず、双方とも同罪として処罰すること。
「ケンカにおいてはどちらか片方が正しいという事はあり得ず、双方ともに非がある」という理屈です。
「喧嘩両成敗」を利用した「仇討ち」が、前述、まずは自らが切腹して果て、遺恨ある相手にも腹を切ることを迫るという「差腹(さしばら)」です。
これを受け入れず、逃げて行方をくらます者が現れた場合、藩・幕府としては「喧嘩両成敗」を成立させるために「仇討ち」を許可しました。
現代社会でのケンカはどう扱われているのか?
原則的には「喧嘩両成敗」です。
「どちらか片方が正しいという事はあり得ず、双方ともに非がある」。
ケンカを売られた側には、刑法での「正当防衛」の規定があります。
「正当防衛」とは、急迫不正の侵害に対し、自分または他人の生命・権利を防衛するため、やむを得ずにした行為をいう。
これに当てはまった場合は“無罪”なのですが、言ってしまえばたかがケンカ。
まずその主張は認められないと考えておくほうが無難です。
もしも殴り合いのケンカになった場合、その罪は「暴行罪」か「傷害罪」。
- 暴行罪
“ヒトの身体に対して「殴る・蹴る・押す・物を投げる」など、不法な有形力を行使する犯罪”。 - 傷害罪
上記、”ヒトの身体に対して不法な有形力を行使してケガを負わせた犯罪”。
つまり、殴り合いのケンカの結果、無傷だったなら「暴行罪」、少しでもケガをしてたなら「傷害罪」ということ。お互いに、ね?
【まとめ】
個人的には“武士の精神”が大好きな私。
この江戸時代の「仇討ち」の制度、<やられたんだから、やり返す>の考え方においては「その通り!!」と肯定ながらも、その風潮に流されて「致し方なく」という強制力を伴っている点においては「割に合わない」ということで、まったく否定的です。
けど、あくまでも”個人の意思の範囲での選択”として許可される制度であったならば、最高の制度だったな‥?と。
現代おいて‥もしも、アナタのホントに大切な人が‥あまりにも理不尽に、無残に殺されてしまったとして‥。
その「恨み・遺恨・怨恨」を晴らすための一手段として、もしも「仇討ち」の法律があるとするならば、アナタは賛成しますか‥? 反対ですか‥??
私は賛成です。
社会の文明化(?)とやらが進むほどに、特に「死」に対しての「規制」が進み、なぜか法律の名の下に「犠牲者」よりも「加害者」の擁護に傾きすぎている昨今‥。
あの、光市母子殺害事件の被害者の夫・本村洋氏の
司法に絶望しました。控訴、上告は望みません。早く被
告を社会に出して、私の手の届くところに置いて欲しい。
私がこの手で殺します。
まさしく、マスコミを通じての「報復殺人=仇討ち」の宣言。
「カッコいい」と思ったと同時に、その“無念の思い”に圧倒され‥、現在の“法律” ・“司法”の是非について考えるきっかけとなりました。
アナタはどう思います??
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