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江戸時代の消防隊「火消」の破壊任務が興味深い

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明暦の大火を描いた江戸火事図巻の一部 (田代幸春 画、1814年) 。
(クリックで拡大します)

さきほど、消防車のサイレンの音が聞こえてきました。

「ウー、カンカンカン」

だったので、どこかで火事なんだな、と‥。

消防車は、火災現場に出動する場合は「サイレン+鐘」で走行します。
「救助」「救急」「警戒」など、火災以外の自然災害などの現場へ出動する場合は「サイレンのみ」で、「鐘のみ」は無事鎮火の後、消防署に戻るとき。

それはともかく、江戸時代の消火活動って大変だったろうな、と思った。

消防車もなく、ポンプもホースない状況での人力のみによる消火活動。

どうやって火事を消してたのかご存じですか?

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(江戸の町中に常設されていた消防用の桶。 Wikipedia)

江戸の消防団「火消」は家屋の破壊活動部隊だった

「火事と喧嘩は江戸の華」

江戸の町は大火事が多く、その火消の華やかな働きっぷりと、気が早い江戸っ子の派手で威勢のよい喧嘩は江戸の見物(みもの)であるという意味。

江戸っ子の喧嘩は、もっぱら「口喧嘩」。乱闘などは「野暮」の極み。

ただ、ここでいう「喧嘩」は、いわゆる普通のケンカなんかのことではなくて、「火事場での命懸けの消火活動の最中の火消のケンカのこと」なんだそうです。


言うまでもなく江戸時代の家屋はほとんどが木造で、木と紙で造られていたために非常に燃えやすく、しかも狭い土地に長屋が密集して町ができていたために火事が頻発、一度火災が発生するとあっという間に延焼し、その規模も大きくなりました。

火事を消そうにも現在のようなポンプもホースもなく、せいぜい桶でくんだ水をかけることくらいしかできず、そんなものは大火に対してはまさしく焼け石に水。

このような状況下、火消の仕事というのは「火消」という名前ではあるものの、実際に水をかけて火を消すという消火消防はめったになく、主には延焼を最小限に食い止めるために火元や隣家を潰して延焼を防ぐという破壊消防でした。

そのため、長鳶口(ながとびぐち)のような道具や、大のこぎりなどを使いこなせる鳶職の専門家たちが火消の中心メンバー。

享保3(1718)年に、あの南町奉行、大岡越前が出した「その町の火事はその町で守れ」という御触れ書きをきっかけで「町火消」が結成されることとなったものの、様々な職業の人で編成されていたため、いざ火災現場に行くと鳶職以外の人は邪魔となりました。

ならば1業種の鳶だけの編成で、と組織されることとなったのが「いろは48組」です。

江戸の火消の組織について

奉書火消(ほうしょびけし)

寛永6年(1629年)、第3代将軍徳川家光のときに江戸に初めてつくられた火消。

火事が起きてから「奉書」という老中の出した将軍の命令書を用意して、諸大名に使者を出して召集、「奉書」を受け取った大名が家臣を引き連れ現場に向かって消火に当たるという迅速さに欠けるものであった。

また、駆けつける大名や家臣にしても、特に火消の訓練を行なっているわけもないため火事に対しての有効な手段とはならず、その守備範囲も江戸城内、武家屋敷、神社仏閣など幕府の重要個所に限られていたため、江戸の町民にとっては恩恵のない火消であった。

大名火消(だいみょうびけし)

寛永20年(1643年)、幕府(三代将軍家光)が16の大名家を指名してはじまった火消。

寛永18年1月29日(1641年3月10日)正月、京橋桶町から発生した「桶町の火事」は、将軍家光自身が大手門で指揮をとって奉書により召集した諸大名にも消火活動を行なわせたもののその火勢を食い止めることはできず、江戸の大半を焼くという大きな被害を出した。

幕府はこれまでの「奉書火消」を担当した大名らを集めて検討した結果、桶町火事より2年後の寛永20年(1643年)、幕府は6万石以下の大名から16家を選び、一番組から四番組までの組に編成して新たな火消役「大名火消」を設けた。

この火消役は「奉書火消」を制度化したものであり、1万石につき30人ずつの定員420人を1組とし、1組は10日交代で消火活動を担当してその指揮は選ばれた大名自らがとり、藩邸付近で火災が発生した場合に出動するものであった。

「大名火消」は火事が起こると、華麗な火事装束に身を包んだ家臣、火消の者に隊列を組ませ、現場まで行列をなして出動し消火活動に当たった。

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(画像出典 : 消防防災博物館)

また、幕府について動員徴用される「方角火消」「所々(しょしょ)火消」という「大名火消」もあった。
「方角火消」は正徳2年(1712年)に制度化されたもので、江戸城を中心に5方角5組に分けて担当の大名を決め、主に江戸城の延焼防止を目的として活動し、江戸城内の火事以外では老中の指示を受けてから出動した。消火の主力ではなく火元から離れた場所で火を防ぐため、防大名(ふせだいみょう)とも呼ばれた。
「所々火消」は亨保7年(1722年)に制度化され、主要施設11箇所をそれぞれ1大名に担当させた。担当場所は、江戸城内の5箇所(紅葉山霊廟・大手方・桜田方・二の丸・吹上)、城外の蔵3箇所(浅草御米蔵・本所御米蔵・本所猿江材木蔵)、寺社3箇所(上野寛永寺・芝増上寺・湯島聖堂)であった。

定火消(じょうびけし)

慶安3年(1650年)にはじまる幕府直轄の火消。

4,000石以上の旗本2人を火消役に任命し、頭の旗本の下にはそれぞれ与力・同心が付属し、臥煙(がえん)と呼ばれる専門の火消人足が活動にあたった。

はじめは2組で発足したが、1657年(明暦3年)の「明暦の大火」の翌年、万治元年(1658年)には4組に増設された。

旗本には専用の火消屋敷と火消用具が与えられ、屋敷はそれぞれ江戸城周辺の御茶ノ水・麹町半蔵門外・飯田町・小石川伝通院前の4箇所に設けられた。その配置はすべて江戸城の北西の方角であり、これは冬に多い北西の風による江戸城延焼を防ぐためであった。

「定火消」は火消屋敷に居住して、第一線の火消として活躍した。約3000坪もの広い敷地内には、3丈(約9.1m)の「火の見櫓」が設けられ、合図のための「太鼓と半鐘」が備えられていた。この火消屋敷が、現在の消防署の原型である。

「定火消」は翌年の万治2年(1659年)に追加で設けられ6組となり、万治3年(1660年)に8組、寛文2年(1662年)に10組、元禄8年(1695年)には15組となって、江戸城を取りまくように配置された。
しかしその後、宝永元年(1704年)以降は10組編成(定員1280名)となり、これが幕末までの150年間続いた。

このことから「定火消」を総称して“十人屋敷”や“十人火消”と呼ばれるようになった。

1659年1月4日に上野東照宮前で、時の老中、稲葉伊予守正則の率いる定火消4組が集結して気勢をあげ、顔見せの儀式として出初(でぞめ)を行なった。これが出初式のはじまりとなった。

町火消(まちびけし)

1718年(享保3年)に南町奉行、大岡忠相がつくった火消。

幕府は「奉書火消」「大名火消」「定火消」などの火消をつくって火災に対処してきたものの、幕府の重要個所や武家屋敷専門の火消役であり、町人はごく近隣に住む者しか恩恵を受けられなかった。

「町火消」は町人による町人のための本格的な消防組織で、殆どが身体能力の高い鳶職で構成された。


第8代将軍徳川吉宗の享保の改革では財政の安定化が目標の一つであり、火事による幕府財政への悪影響は大きく、消防制度の確立は重要な課題であった。

当時、大家や商人は自分の店子や出入の職人を狩りだして火消に従事させていた。これを「店火消(たなびけし)」という。

享保3年(1718年)、大岡越前守は、この「店火消」の組織化を目的とした町火消設置令を出した。「町火消」は町奉行の指揮下におかれ、その費用は各町が負担すると定められた。

火事の際には1町につき最低30人を出して、火元から見て風上・風脇の左右2町を合わせた6町を180人体制で消火に当たらせることになったが、火消とはいえ「店火消」は、大工、左官、鳶職といった職人たちの現場での働きは認識されつつも、何の訓練も受けていない素人がほとんどという集団であり、また地図上での地域割りでは町の広さや人口に大きな差が出て、うまく機能しなかった。

そこで江戸の町を20町から30町に分割し、担当区域内の火事はその中で消し止め、それ以外の町の者が駆けつけるのを厳禁とした。

享保5年(1720年)、約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当する「いろは」の記号を付けた47組と、東の本所・深川を担当する16組「町火消」が設けられた。
(のちに「いろは組」は、「ん組」に相当する「本組」が加わって「いろは48組」となった。後述。)

「町火消」は毎年正月の1月4日に、「定火消」が行なっていた出初(でぞめ)に倣って、各組の町内で梯子乗り木遣り歌を披露する初出(はつで)を行なった。

火消の主役は「町火消」

火災の際に最も活躍するのは「町火消」です。
火事による活動費用は町で負担し、組員は火消そのものが職業ではない点など、今日における各地域の消防団の前身です。

「定火消」が消防署、「町火消」が消防団として江戸の町を守っていました。

「町火消」は町奉行の指揮の下にあり、その構成は、

● 頭取(とうどり)・人足頭取‥‥町の火消全体を統率する

● 小頭(こがしら)・組頭・頭‥‥頭取の補佐、各組を統率する

● 纏持(まといもち)・梯子持(はしごもち)‥‥合わせて道具持という

● 平人(ひらびと)・鳶人足‥‥火消作業にあたる者

● 土手組(どてぐみ)・下人足‥‥火消の数には含まれない

と階級が分かれており、それぞれ半纏(はんてん)の柄でその階級がわかるようになっていました。頭取と小頭は、皮の羽織を着ることが許されていました。


先に述べたように当時の火消の仕事は、現在のような水を使った消火活動ではなく、延焼を防ぐために風下に向かって家屋を壊していくという破壊消防でした。

火災が起きると「町火消」が厚い布製の半纏(はんてん)を着て火事場に駆けつけ、水をかぶって火の粉を防ぎ、火事現場近くの家に梯子をかけ、屋根に登って「ここから先は決して燃えさせない」という気持ちを込めて纏(まとい)を上げて振り込み、鳶口・大のこなどの道具を使って家々を破壊していき、延焼を食い止めました。

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(1890年代の火消の半纏)

もっとも危険な纏持(まといもち)

纏(まとい)というのは、長い棒の頭に飾りをつけ、その下に馬簾 (ばれん) を垂らした「町火消」の各組が目印(シンボル)として用いた旗印のことです。

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(東映太秦映画村で再現された【め組の纏】)

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(【い組の纏】 「江戸の花子供遊び」 歌川芳虎 画)

纏の重さは約15~20キロ前後、そう簡単に扱えるものではなく、長い消火作業中の火事場での特有の風に吹かれても耐え抜く腕力が必要なことから、組のうちで体力、威勢ともに優れた、屈強で命の危険も顧みない勇気の持ち主である若者が「纏持」に任命されました。

火消が火事場に到着するとまず、組の名前を書いた木札(消札、けしふだ)を近所の軒先に掲げ、風下の屋根に「纏持」を登らせて纏を振り込ませました。このことを「消し口を取る」と言います。自分たちの火消の組が「この家までで火を食い止めてみせる」という宣言です。

纏は、火消そのものに使うのではなく「消し口を取った」合図であるとともに、組の集合ための目印、作業を担当をしている者の告知、仲間たちの士気の鼓舞、火消活動の指揮などの意味を持っていました。

その纏を持つ「纏持」の仕事は、まさに命懸けでした。

頭取の指示で屋根に上り、火にあぶられながら猫頭巾から目だけを出し、そこに水をかけながら火事場での風向きや風力を読み、重い纏を回すことによって火の粉をふり払って纏を守りつつも風下に向かおうとする火を食い止めるための作戦を練り、そのために必要な破壊すべき家屋についての指令を出していました。

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(画像出典 : 火消し装束と道具 )

「消し口を取った」以上、そこで火を食い止められなければ組の恥ともなるし、組頭から命じられない限り屋根からは降りられないので、もしも自分の立っている家が焼け落ちれば命を落とすことになります。

そうなると組にとっても「纏持」と組のシンボルである纏も一緒に燃えてしまうこととなるため、各自が死に物狂いで必死に作業にあたりました。

火消活動が完了を迎えるまで、纏をずっと振り込み続けて最後まで見届ける‥。
そういう役目をもっているのが、「纏持」です。

いろは48組

例えば「暴れん坊将軍」では「め組」、「JIN -仁-」では「を組」。

それぞれ時代は異なれど、数々のドラマに登場する「いろは48組」

【いろは四十八組 纏一覧】 (クリックで拡大します)

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(出典:江戸の町火消し と 纏)

【いろは組とその纏(落合芳幾)】(クリックで拡大します)

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(いろは組とその纏(落合芳幾) )

「いろは48組」の「いろは歌」について

「いろは」というのは「いろは歌」

大乗仏教においての「悟り」を表した「いろは歌」 。

いろはにほと ちりぬるを
わかよたれそ つねな
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑもせす
(計・48文字)

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

色は匂へど 散りぬるを

花は競い合って咲き誇り匂うものながらも、やがては枯れて必ず散ってしまうのと同様、人間世界での幸せというものにおいても、経済格差、見た目の美と醜の差、身体的な優劣、損得の勘定、その他諸々の喜怒哀楽‥。
結局は、時を経て変化してしまうもの、もしくは消えてなくなってしまうもので、そんなものにこだわるのは空しい限りである。

我が世誰そ 常ならむ

いったい、今のこの世で誰が永遠に生き続けることができるというのだろうか?

有為の奥山 今日越えて

日々何のために生きているのか分からない‥。
有為(さまざまな因果関係、人々の所業)、苦しみの人生の深い山を今日越えて。

浅き夢見じ 酔ひもせず

浅はかな夢など見ることもなどしない、酔ったりもしない。

「いろは48組」には「へ・ら・ひ・ん」の組は無い

「いろは48文字」には「へ・ら・ひ・ん」の文字がありますが、「いろは48組」にはこの4文字はありません。欠けています。

なら、「44組でしょう?」となるところですが、「いろは48組で正解です。

何故なのか?

「へ組」・・「へ」は、「屁」
「ら組」・・「ら」は隠語で、「裸」「魔羅(まら=男性器)」
「ひ組」・・「ひ」は文字通り、「火」
「ん組」・・「ん」は一巻の終わりの、「終」

下世話、縁起が悪いという理由で、欠格、

「へ組」 → 「百組」
「ら組」 → 「千組」
「ひ組」 → 「万組」
「ん組」 → 「本組」

とされました。

いろはの順番の「へ・ら・ひ・ん」「百・千・万・本」

さすが命懸けの職業、験担ぎ(げんかつぎ)においても必死だったんですね。


まさに、火消、 英語での消防士= ファイヤーファイター (firefighter)ですよね。

そんな江戸の町を火事から守る「町火消」、町民からは尊敬・賞賛の眼差しを向けられ、人々みんなが憧れました。

火消の頭、力士、与力色男の代名詞「江戸の三男(えどのさんおとこ)」と呼ばれ、女性にモテモテでした。

今の時代でいうなら、消防団々長、お相撲さん、警察署々長といったところ。

むう‥実におもしろい。

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